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カナダ国立映画制作庁(NFB) 70年のあゆみ
カナダ国立映画制作庁(NFB) 70年のあゆみ

          東京工芸大学芸術学部アニメーション学科 准教授・権藤俊司著

アニメーションの歴史の中で、NFBは特別な存在である。
何よりもそこにはノーマン・マクラレンがいた。
アニメーション、とりわけ実験アニメーションの分野でマクラレンほど知られた作家は極めて珍しい。彼の作品は実験映画の狭いゲットーを飛び越えて、幅広い分野の芸術家に影響を与えてきた。それを可能にしたのはマクラレンの個人的資質だけではなく、NFBという組織の力だった。
そもそもフィルム制作という資金と時間を要求する領域で、非商業作家の置かれた立場は非常に脆弱である。ところがマクラレンの場合、NFBの中で守られ、自由な制作活動が保証されていた。また、映画祭や各地のフィルムライブラリーを通じて、世界に向けて彼の作品は発信された。「民主主義国家における宮廷芸術家」(ジャンナルベルト・ベンダッツィ-イタリアのアニメーション史家)と言われるゆえんであり、NFBはいわばパトロンの役割を果たしたのである。
マクラレンだけではない。
砂アニメーションやペイントオングラスアニメーションのキャロライン・リーフ(『がちょうと結婚したふくろう』『ザムザ氏の変身』)、ピンスクリーン・アニメーションのジャック・ドルーアン(『風景画家』)、ビーズや透過光を駆使した特殊撮影技法の名手イシュ・パテル(『ビーズゲーム』『死後の世界』)。作家毎、あるいは作品毎に異なる表現が開発され、観客を魅了した。統一したカラーがないことそのものがNFBアニメーションの旗印であり、その質・量共にまちがいなく20世紀後半のアニメーションをリードしていた。
最もユニークな点はNFBが国立機関ということである。最近は日本でも行政によるコンテンツ支援の必要性が叫ばれているが、NFBは自らが主体として映画制作を行った。かつてのソ連や東欧諸国のような共産主義体制ならともかく、資本主義国家としては極めて異例である。しかも、そこで生み出された作品には前述のように実験的なものも多く含まれていた。そんなことが可能になったのはなぜか。

ここでNFBの歴史を少し振り返ってみたい。
NFBの設立は1939年。カナダにおける映画制作・配給・上映の調整機関としてスタートした。だが、発足直後に第二次世界大戦が勃発し、戦時下のプロパガンダ映画制作が活動のメインとなった。
1941年にマクラレンが入ってきたとき、アニメーションに要求されたのは実用性である。マクラレンは数名のアシスタントと共に、戦勝国債の宣伝や倹約のメッセージを伝える国策映画の制作、さらには実写映画のタイトルアニメーションや地図の図解映像を担当した。
折しもアメリカでは『ファンタジア』や『ピノキオ』でセルアニメーションが技術的・芸術的頂点に達していた。その一方、NFBでは様々なアニメーション技法(切り紙、物体、人形、フィルムへのダイレクトペイント)が採用された。
また、マクラレンは作家と教育者の両面で活動した。マクラレンがリクルートし、育てた才能の中には、後にイギリスで『イエローサブマリン』を作るジョージ・ダニング、マクラレンの片腕イヴリン・ランバート(『二羽の小鳥』)、早熟の天才ライアン・ラーキン(『ストリートミュージック』)らがいた。数々の受賞歴を持つジャック・ドルーアン、キャロライン・リーフ、ピエール・エベールらもその一人である。
1945年の戦争終結でNFBの役割はさらに変化した。国内外に向けた、映画によるカナダ文化の普及、それが新たな使命だった。

これには説明が必要である。
カナダの文化的アイデンティティには不安定な要素が大きい。
アメリカが「民族のるつぼ」なら、カナダは「民族のモザイク」と呼ばれる。総人口の8割を占める英語系住民と少数派の仏語系住民が混在し、かつ両者は分離傾向にある。カナダで英語と仏語を公用語とする二言語政策をとっているのはこのためである(NFBも仏語ではONFが正式名称となる)。カナダのことをまずカナダ人自身に知らせる必要がある。
また、カナダは常に隣国アメリカの影響力にさらされてきた。アメリカの娯楽文化の流入を止めることは不可能であり、ましてやハリウッドの大作映画に正面から対抗するのは非現実的である。その代わりに、NFBはドキュメンタリー映画や短編アニメーションというジャンルに力を注ぎ、カナダ文化を海外に発信した。
結果として、この文化政策が収益にとらわれないアニメーション制作を可能にしたのである。

その後、1955年にNFBは首都オタワからケベック州モントリオールに移転した(ケベックはカナダで唯一仏語系住民がマジョリティの州)。
そして、それに続くターニングポイントが1967年の仏語スタジオ(フレンチアニメーション・スタジオ)設置である。
仏語スタジオの責任者となったルネ・ジョドワンは、マクラレンの理想を受け継ぎ、実験的方向性を推し進めた。それが本格的に開花するのは1970年代で、リーフ、ドルーアン、あるいは立体アニメーションのコ・ホードマン(『砂の城』)らが所属し、数々の傑作が誕生した。
仏語スタジオの特徴としては、社会的なテーマ意識の高さがあり、その傾向は最近のミシェル・クルノワイエ(『ハット』)やマルティーヌ・シャルトラン(『ブラックソウル』)にも現れている。また、女性作家の活躍という点でも仏語スタジオは世界の先駆けである。
もう一つのスタジオ、英語スタジオ(イングリッシュアニメーション・スタジオ)で目につくのが、カイ・ピンダルやズラトコ・グルギッチ、ジャネット・パールマンといった軽妙な作風のセルアニメーション作家たちである。その一方で、キャロライン・リーフ(仏語スタジオから移動)、イシュ・パテル、ウェンディ・ティルビーら多様な表現を追求するタイプの作家も活躍している。
この他、70年代に設立された支局の一つであるウィニペグスタジオでは、モントリオールとは違ったタイプの作家が台頭した。『仕事をくれー!』のブラッド・キャスラーや『ビッグ・スニット』のリチャード・コンディ、『猫帰る』のコーデル・バーカーなど、ハリウッドのカートゥーン(ルーニーテューンやテックス・アヴェリーなど)に近いギャグアニメーションは、従来のNFBでは考えられない作風である。

話をまとめよう。
マクラレンと彼に続くNFBの作家たちは、アニメーションというメディアがシリアスなテーマを十二分に扱えることを証明した。また、作家主義ともいわれるように、作家個人の声に従うことの必然性を提示した。この二点はアニメーションを見る側の意識を変革しただけでなく、世界中の若い作家たちの指標となった。そして、多くの作家たちがNFBを目指した。
それが他ならぬ国の機関で組織的におこなわれたこと。これこそがNFBという存在をユニークなものとした歴史的意義である。
1980年代以降、日本を含む世界各地で、NFB作品から直接・間接に影響を受けた作家が数多く登場している。実験アニメーションはもはやNFBの専売特許ではなくなり、そのことがNFBの唯一性を相対的に低下させたのは歴史の皮肉かもしれない。だが、それは「映画によるカナダ文化普及」がもたらした実りでもある。

(第10回カナダ・アニメーション・フェスティバル、カナダ国立映画制作庁創立70周年 記念パンフレットより)

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テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

[2009/12/07 00:49] | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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